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神に最も近づいたロックスター [ROCKは死んだ・・・]

【ジョン・レノン】



 ここで言う【神】とは、比喩でも形容詞でもない。
正真正銘、宗教的な【神】のことだ・・・。




 ザ・ビートルズで世界中を熱狂の渦に巻き込んだ、ジョン・レノンは
1966年に、後に「キリスト教事件」と呼ばれる大事件を招いた・・・



 イギリスの新聞社の記者に対して、「キリスト教は消えて無くなる・・・今やビートルズは
イエスよりも影響力がある、ロックン・ロールとキリスト教どちらが先に消え去るかは分からない」
(勿論、ROCKが先に消え去りそうではあるが・・・)


 この発言は、イギリス国内では殆ど問題にならなかったが・・・
キリスト教文化圏に拡散されると、アメリカでは保守系宗教団体による反ビートルズ活動が起こり
非難と共にグッズやレコードが燃やされ、ラジオ局は放送禁止に追い込まれる・・・
スペインや南アフリカ共和国でも放送禁止となり、バチカンからも非難声明が出される騒ぎとなる。




 この騒ぎは、5ヶ月後にアメリカでレノン自身が謝罪会見を行うことで、バチカンが受容し
終息するのだが、レノンの未来を暗示する事件だったような気がする。



 もう一つ、同じ1966年にレノンの運命を変える事件が起こっていた・・・
そう・・・前衛芸術家で反戦活動家であった小野洋子との出会いである。




 違う時代ならこんな結末にはならなかった・・・そんな気もするが、時代はそれを許さなかった
二人は泥沼化するベトナム戦争の中、反戦活動に身を投じて行く・・・


 奇妙な反戦パフォーマンスは、世の中の好奇な目を刺激し、強い影響力を持つようになった
その影響力を恐れたアメリカ政府からは敵視される・・・その軋轢から益々過激化して行く悪循環
そして人々の心の中では、レノンは徐々に神格化されていったのだ。




やがて・・・ベトナム戦争は終結し、レノンも普通の生活を取り戻すが、再び活動を再開した
その時、レノンを待っていたのは狂信者の凶弾だった・・・



1980年12月8日 ジョン・レノン 自宅前で銃撃され死す 享年40歳。



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30歳まで生きられないかも知れない・・・ [ROCKは死んだ・・・]

【マーク・ボラン】



 ブリティッシュ・ロックスターには、黒魔術や悪魔崇拝などオカルト的イメージで語られる人が
多くいる・・・ジミー・ペイジ、ロバート・フリップ、リッチー・ブラックモア、オジー・オズボーン
ミック・ジャガー、キース・リチャード、デビッド・ボウイ・・・前回のジョン・レノンにも同様の
噂があったようだ・・・



 しかし・・・私にとってこのジャンルの中でぶっちぎりのロックスターと言えばこの人だ!
マーク・ボラン・・・盟友デビッド・ボウイと共に【グラム・ロック】と言うジャンルを確立して
一時代を、爆発的パワーを持って駆け抜けたロックスターである。
(グラム・ロックとは、今で言えばビジュアル系・・・かな?)



 マーク・ボランのボランとは、ボブ・ディランを短縮したもので、マークの音楽キャリアの
スタートは、二人組のアコースティック・ユニット【テラノザウルス・レックス】だった・・・
後に相棒を、盟友ミッキー・フィンにチェンジ・・・自身は電気ギターに持ち替えて1970年
ユニット名を【T・レックス】に変えてからは、爆発的に売れるようになった・・・



 ボランはその成功の理由を、「悪魔と契約したからさ・・・」と・・・うそぶいていたのだが
同時に、「だから俺は30歳まで生きられない」との発言を繰り返していた・・・




 そして・・・1977年9月16日・・・マーク・ボランはミニ・クーパーの助手席で即死する
運転していたのは愛人で飲酒運転だった・・・助手席側から大楓の樹に激突し車は大破したと言う。



 1977年9月16日、ボランが死んだ日が彼の30歳の誕生日の二週間前だったので・・・
人々はボランが日頃口にしていた、あの言葉を思い出し恐怖に戦いた・・・




 「俺は30歳まで生きられない・・・」




1977年9月16日 マーク・ボラン 自動車事故にて死亡 享年29歳。


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ウィズアウト・ユー [ROCKは死んだ・・・]

【ピート・ハム】
【トム・エヴァンズ】




 ウィズアウト・ユーは1972年に、ニルソンによって全米・全英共に1位に輝いたバラードの
名曲である・・・1994年にマライヤ・キャリーのカヴァーが再び全英1位となった・・・


 
 このウィズアウト・ユーのオリジナルは、1969年にアップル・レコードからビートルズの
弟分としてデビューしたバッドフィンガーであり、ピート・ハムとトム・エヴァンズの共作だった。




 バッドフィンガーは1970年に、アメリカツアーをするために当時ニューヨークで評判だった
スタン・ポリーとマネージング契約を結ぶ・・・しかしこの男・・・裏ではマフィアと繋がる
とんでもない詐欺師野郎だった・・・


 この詐欺師野郎のため、バッドフィンガーはレーベルの二重契約や稼ぎの横領など散々な目に遭い
バンドのリーダーだったピート・ハムは、精神的にも経済的にもトコトン追い詰められ・・・
1975年4月24日に、失意の果てに自宅で首吊り自殺をする。




 ピート・ハム死後もバンドのゴタゴタは続き、レーベルを替えて再スタートするがうまくいかず
さらに世界的スタンダードの名曲となった、ウィズアウト・ユーの巨額の印税を巡ってメンバーや
マネージャー間での訴訟騒ぎが相継ぎ、それに疲れたトム・エヴァンズは・・・
1983年11月19日に、ピートの後を追うように首吊り自殺をする。





1975年4月24日 ピート・ハム 首吊り自殺 享年27歳。
1983年11月19日 トム・エヴァンズ 首吊り自殺 享年36歳。


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27クラブ [ROCKは死んだ・・・]

【ゲイリー・セイン】




 往年のロック・ファンにとっては、もう常識レベルで信じられている【27クラブ】を御存知
だろうか?・・・前回のピート・ハムもこのメンバーなのだが、27歳鬼籍伝説である・・・



 1970年の9月18日と10月4日に、立て続けにジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン
が同じ27歳で死亡したことが、伝説の始まりとなった・・・



 翌年の7月3日にドアーズのジム・モリソンが27歳で突然死することで、伝説は完成する・・・





 さて・・・当時私が熱狂していたユーライア・ヒープにも、残念ながらこのクラブに記録された
メンバーがいる、ゲイリー・セインだ・・・



 ユーライア・ヒープは、1969年デビュー今年で50周年になる・・・
現在もバリバリの現役で活動しており、ナザレスと共に奇跡のロングランバンドだ・・・


 その50年のバンドの歴史の中、ゲイリー・セインはバンドの黄金期に在籍していたメンバーで
ロックアルバムジャケット画伯ロジャー・ディーンを起用した2枚のアルバム、悪魔と魔法使いと
魔の饗宴は、今でも歴史的名盤の評価を得ている・・・




 ゲイリー・セインは、アメリカツアー中の1974年9月15日、ダラスでのステージ上で
感電事故にあう・・・一ヶ月後には復帰して残ったツアーをやり遂げ、翌年の新作レコーディング
のリハーサルにも参加するが・・・バンド活動の継続は無理だと判断され解雇される・・・




 ゲイリー・セインは、感電事故の後遺症と闘う内にドラッグ中毒に陥り廃人同然となっていたのだ
1975年12月8日、薬物の過剰摂取でゲイリー・セインはこの世を去った・・・




1975年12月8日 ゲイリー・セイン オーバードーズで死亡 享年27歳。


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あなたがここにいてほしい [ROCKは死んだ・・・]

【シド・バレット】



 ピンク・フロイドは世界で最も成功したロック・バンドのひとつなのだが、1967年のメジャー
デビュー時は、アイドルシド・バレットのワンマンバンドだった・・・



 当時の社会現象フラワームーブメントに乗った、サイケデリック・ロックの代表的なバンドで
(サイケデリック・ロックとは、覚醒剤LSDでラリッた感覚を再現しようとしたジャンル)
シド・バレットの端整な顔立ちとラリっぷりで大変な人気者だったようだ。



 前述のマーク・ボランがT・レックスで路線を変更したのも、この時のシド・バレットに憧れ
第二のシド・バレットになりたかったのだと思う・・・



 しかし・・・もともと先天的な要素があったのか、すべてがLSDの乱用によるものかは不明だが
1968年には正常な社会活動が不能になる位、精神に異常をきたしていた・・・



 シド・バレットはピンク・フロイドを去り、ステージでシドの代役を務めていたギルモアが
そのままピンク・フロイドに参加することで、多くの人が知るあのピンク・フロイドになって行く。





 1975年にリリースされた、【炎~あなたがここにいてほしい】のレコーディング・スタジオに
シド・バレットが変わり果てた姿で、突然現れた。



 余りにも変わり果てていたため、最初は誰もシド・バレットだとは気付かなかったようだ
そして、シドだと周りが理解した時、ロジャー・ウォーターズは涙したと言う・・・



 【炎~あなたがここにいてほしい】は、シド・バレットに捧げられたアルバムだと言われているが
シド自身も、それを感じ取っていたのだろうか・・・





 これ以後、シドの病状が悪化する・・・と言う理由で、ピンク・フロイドとシド・バレットの
接触は禁じられ、メンバーは二度と会うことは無かった・・・





2006年7月7日 シド・バレット 糖尿病とその合併症で永眠 享年60歳。


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もう続けることが出来ない [ROCKは死んだ・・・]

【ジョン・ボーナム】




 1950年代から続くロックの歴史の中で、最も偉大なバンドはザ・ビートルズだが、もう一つ
それに匹敵するバンドが存在する・・・それがレッド・ツェッペリンだ。

 
 
 ザ・ビートルズは1970年に解散、そしてレッド・ツェッペリンは1980年に解散している。



 最も偉大なバンドと称されるからには、メンバー一人一人の個性が最高で、しかも奇跡的にバンド
としても調和していたからこそだと思う・・・



 そんな奇跡のバンドが、解散する時とはどんな状態だったのだろうか・・・。




 ザ・ビートルズの場合は、ステージ活動を止めてアルバム制作中心の活動に、シフトしたことが
解散に至る大きな要因になったと思う・・・
(当時はコンサートを運営するシステムが未熟で、ツアーで起こる様々なトラブルに嫌気がさした)


 メンバーがアルバム制作に全力を投入し、独特のアイデアや実験的な手法が色々試されることで
ロックの音楽性を劇的に高めたが、メンバー間の方向性の違いも際立たせる結果となった・・・


 実生活上の問題も含めて、方向性の違いが決定的な対立となった時、ポールが脱退宣言をする


残った三人は、メンバーを補充してザ・ビートルズを続けようと模索するが、その動きもポールが
訴訟を起こしてまで阻止し、ザ・ビートルズの解散が決定的となった・・・




 もう一つの奇跡のバンド、レッド・ツェッペリンの場合はどうだろうか・・・



 これは結果論だが・・・レッド・ツェッペリンは、四人のメンバーが完璧過ぎた・・・
余りにも奇跡的過ぎて、誰にも真似できない独自の世界を構築してしまった。
(スタイルを模倣するものは後を絶たないが、奇跡はそう簡単には起こらない・・・)



 そう・・・奇跡は簡単には起こらない・・・



 1968年に本格的に活動を開始して、わずか一年で世界を席巻・・・
1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票で、ザ・ビートルズを抜き一位となる。




 バンドの不安要素は、ロバート・プラントに集中していた・・・
その独特の歌唱法によって、プラントの声帯は常に危機的状況だった、1973年には限界に達し
それまでの歌い方が不可能な状態まで悪化、喉の手術を受けるに至る。


 1975年には、自動車事故で両足を骨折し長期離脱することになり、このことで喉の状態が
皮肉にも改善、1977年にツアーを再開しようとした矢先に、長男がウィルス感染症で死亡・・・
無期限の活動停止に追い込まれてしまう。



 1980年、本格的に活動を再開した時に、バンド最大の悲劇が起こる・・・
アメリカ・ツアーのリハーサル中の、9月25日にジョン・ボーナムが吐瀉物を喉に詰まらせて遺体
で発見される・・・(多量の飲酒が原因で、肺水腫を起こしていた・・・とされる)




 余りにも奇跡的なアンサンブルだったため、ボーナムの死はレッド・ツェッペリンの死を意味する
こととなり・・・ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンの解散を発表した。




1980年9月25日 ジョン・ボーナム 多量の飲酒による吐瀉物で窒息死 享年32歳。



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すまないが、プレイできそうもない・・・ [ROCKは死んだ・・・]

【リチャード・ライト】



 以前にも書いたが、ピンク・フロイドはロック史上最も成功したロック・バンドのひとつだ・・・
メジャー・デビュー以降在籍していたメンバーは五人、バレットとギルモアが同い年で、あとの三人は
二つ年上の同い年だ。


 そもそもピンク・フロイドと言うバンド名は、バレットのアイデアでアメリカのブルース奏者だった
ピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルの名前を合体させたものらしい・・・



 バンドのフロントマンだったバレットが、LSDの影響であっちの世界に行ってしまったあとに
代役で加入したデヴィッド・ギルモアが、やがてバンドのフロントマンになって行く・・・





 しかし、70年代に大作を次々に発表していた頃のバンドの主導権を握っていたのは、ほぼ全ての
作詞を担当していたウォーターズだった。


 そのウォーターズとバンド内で激しく対立していたのが、リチャード・ライトである・・・
確かに・・・ウォーターズの世界観や鋭い社会批判は、ピンク・フロイドの魅力のひとつなのだが、
ライトはもっと音楽的でエモーショナルな、バンドサウンドを望んでいた。


 あの歴史的大作ザ・ウォールの頃には、二人の対立は決定的となりライトは正式なメンバーから
外れていた・・・(このことが後に、ライト自身を救うことになるのだが・・・)



 ウォーターズ主導のザ・ウォール・ツアーは、コストを無視した完璧主義で貫かれバンドに巨額の
負債をもたらす・・・ウォーターズの独裁に嫌気がさしたメンバーはバラバラになり崩壊して行く。



 孤立したウォーターズはピンク・フロイドを終わらせるつもりで、脱退宣言をする・・・
自分がピンク・フロイドだとウォーターズは信じていたのだが、聴衆はギルモア主導のバンドを
熱狂で迎える・・・



 この後に起こるウォーターズの執拗な訴訟攻撃は、周知の通りである・・・





 2006年7月7日、かつてのリーダーだったシド・バレットが死去。




 この訃報に触れ、バレットが去った後のピンク・フロイドの方向性を模索していた当時を思い
ギルモアとライトは、ピンク・フロイドのサウンドが最初に完成した・・・と思ったのはアルバム
おせっかいの中の一曲、エコーズだと述べている・・・




 2006年のギルモア・ソロツアーにライトは全公演参加し、エコーズを演奏している
エンディングのギルモアのギターとライトのピアノの掛け合いに、涙が止まらないのは・・・
私だけではないだろう。



 ギルモアは、2008年のツアーもライトの参加をオファーしていた・・・
しかしそれはかなうこと無く、一通のメールが残されていた。



「すまないが、プレイできそうもない・・・」



2008年9月15日 リチャード・ライト 癌により死去 享年65歳。



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